本記事は、桑原晃弥氏の著書『世界の大富豪から学ぶ、お金を増やす思考法』(ぱる出版)の中から一部を抜粋・編集しています
「たしかに社員が15人しかいない会社で、売上げがまだ2憶円で、1憶円の赤字だ。その損益計算書とかバランスシートといっても、実績、規模とかいっても、議論の根拠がない。僕の直感に黙って100憶円預けてほしい」 ── 「孫正義 起業のカリスマ」
孫正義(ソフトバンクグループ創業者)
孫正義がソフトバンクの前身となるユニソン・ワールドを創業したのは1980年のことです。以来、パソコンソフトウェア流通と出版で会社は成長、1994年に店頭公開をしますが、ここから同社を急成長させたのはアメリカのヤフーへの出資です。
ヤフーはスタンフォード大学の大学院に在籍中のジェリー・ヤンとデビッド・ファィロによって1995年に設立された会社ですが、孫が同社の名前を知るのはその年の11月です。当時、孫は「インターネット革命の入口のところでこれから伸びるであろう会社100社に資本参加したい」と考えていました。その一番手として名前が挙がったのがヤフーです。
孫はすぐさま創業者2人と会い、さまざまな会話を通して「これは伸びる」と直感、その場で5%の出資と、日本でのジョイントベンチャー(のちのヤフー・ジャパン)を提案します。圧倒的スピードですが、孫はさらに積極的に動きます。1996年2月、株式公開を間近に控えるヤフーに対して、出資比率を5%から35%に引き上げてほしいと申し出ます。
必要な資金は100憶円です。約5時間かけてヤフー側を説得した孫ですが、この時、日本のソフトバンクの役員は難色を示していました。「社員が15人しかいない会社で、売上げがまだ2憶円で、1憶円の赤字」の会社に対し、自社の純利益の倍近い100憶円をなぜ投じるのかということです。そんな役員に対し、孫は「いや、これは絶対にいけると思う。僕に勝負させてほしい」と啖呵を切り、進めます。
投資した100憶円は株式公開によって3倍になり、ヤフー・ジャパンは日本ナンバーワンのポータルサイトとなり、ソフトバンクを大きく成長させるけん引役となったのです。孫は2000年にも中国のアリババに20億円を出資、14年後に8兆円もの含み益をもたらします。
ココがポイント
自分の直感を信じて勝負をかけろ。
「京セラには創業以来、積み立ててきた手持ち資金が1千5百億円ある。このうち、1千億円使わせてほしい」──「君の思いは必ず実現する」
稲盛和夫(京セラ創業者、KDDI創業者)
1959年、27歳で京セラを創業した稲盛和夫は、一代で同社を世界的企業へと成長させますが、一方でauブランドで知られるKDDIの創業や、経営危機に陥った日本航空の再建などに辣腕を振るった経営者でもあります。
京セラで成功を収めた稲盛が通信事業への参入を決めたのは1983年のことです。電電公社(現NTT)が市場を独占することで生じていた高すぎる電話料金に対する不満が背景にありました。当時、日本政府は長らく独占状態にあった通信市場の門戸開放を決めますが、巨人相手に戦いを挑む企業はあらわれませんでした。「誰もやらないなら、自分がやるか」と決意した稲盛は、京セラ本社で臨時の役員会を開き、こう切り出します。
「京セラには創業以来、積み立ててきた手持ち資金が1千5百億円ある。このうち、1千億円使わせてほしい」
リスクはあまりに大きいものでした。電電公社は4兆円の売上げがあるのに対し、当時の京セラは2,000憶円余り。巨像とアリです。無謀な戦いに思えましたが、稲盛はベンチャー出身の経営者がチャレンジ精神を持って参入する方が良いのではという考えがありました。「京セラのため」ではなく「社会のため」に使うという大義名分もありました。
稲盛の覚悟にソニー創業者の盛田昭夫たちも賛同、1984年に誕生したのが第二電電(現KDDI)です。その後、JRや日本道路公団、トヨタなども相次いで参入を表明、第二電電は一時は泡沫扱いされましたが、「動機が正しいのだから負けるはずがない」という稲盛の熱意に引っ張られるようにして成長、93年にライバルのトップを切って株式上場を果たします。稲盛はこの時、個人としての創業者利益はあえて得ていませんが、経営者としての評価は揺るぎないものとなっています。
ココがポイント
「動機の正しさ」が勝利を呼び込むことになる。
「消費者は話題になった店へ足を運びます。そこで商品を手に取って、『これはいい店だ』と納得したら、『うちの近所にも一店欲しい』と思うんじゃないでしょうか」──「成功はゴミ箱の中に」
柳井正(ファーストリテイリング創業者)
「ユニクロ」を中心とするファーストリテイリングを一代でZARAやH&Mと並ぶ世界企業にまで育て上げた柳井正は大学を卒業して、1年ほどのスーパーでの修行を経て家業を継ぐために山口に戻ります。任されたのは主にメンズショップ小郡商事(紳士服店が一店、カジェアルウェァのVANショップが一店)でした。
年商1憶円くらいの規模の店で、赤字ではないもののそれほど儲からない店だったといいます。当初、商売には不向きだと思っていた柳井ですが、覚悟を決めて仕事をするうちに「僕にもできそうだぞ」という自覚が生まれ、売上げを伸ばすためにさまざまな試行錯誤を重ねるようになります。
その後、父親に代わって社長に就任した柳井はかねてより考えていた10代の子ども向けに、流行に合うカジュアルウェアを低価格で提供する「ユニクロ」の1号店を広島に出店します。徐々に店を増やすとともに、販売する商品に関しても自社で企画して、生産も管理するようになったユニクロは1989年11月の原宿出店と同時期のフリースブームを起爆剤に急成長を遂げます。
やがて柳井の目は世界へ向かいます。2005年アメリカに3店舗を順次オープンしますが、大失敗します。「ユニクロ」など誰も知らなかったからです。しかし、失敗して終わるつもりのなかった柳井は、次に先端ファッションブランドが数多く出店するニューヨークのソーホーに出店します。目指したのは「世界最大で、最新で、最も進んだユニクロ」でした。大きな賭けでしたが、旗艦店オープンの宣伝を用意周到に進めたことで成功します。都市の中心に店があってこそチェーン展開が可能になります。柳井はそれを実践することでユニクロのさらなる成長を可能にしたのです。
ココがポイント
失敗して終わるな。より大きな挑戦をして成果を上げろ。
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