新型コロナウイルスによるパンデミックは、社会課題の顕在化や社会の分断をもたらした。この混迷の時代に、世界の国々はどう動くのか。特に、すでに成熟期に入った中国や成長著しい東南アジア各国は、事業や投資を行う上で注視すべき存在だ。今後アジアやアフリカがますます台頭するであろう時代に備え、これら地域の情報を集め、活用していくことは、日本にとって大きなテーマである。

日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア経済研究所では、60年にわたり開発途上国・新興国の調査研究を行ってきた。対象地域はアジアだけでなく中東やアフリカ、ラテンアメリカなど世界各地に広がっている。今回は、ジェトロ理事でアジア経済研究所担当の村山真弓氏、学術情報センター長兼図書館長の村井友子氏の2人に、アジア経済研究所の取り組み概要や最近の研究、オープンアクセス資料について伺った。

(取材・執筆・構成=落合真彩)

アジア経済研究所
左から村山真弓氏、村井友子氏(画像提供:アジア経済研究所)
村山真弓(むらやま まゆみ)
日本貿易振興機構理事、アジア経済研究所担当。1984年アジア経済研究所入所、専門分野は南アジア地域研究、ジェンダーと開発、労働問題、域内関係。著作に『知られざる工業国バングラデシュ』 (村山真弓・山形辰史編 アジア経済研究所 2014年)、『これからのインド:変貌する現代世界とモディ政権』 (堀本武功・村山真弓・三輪博樹編 東京大学出版会 2021年)など。
村井友子(むらい ともこ)
1990年にアジア経済研究所に入所し、当時の図書資料部にライブラリアンとして配属される。1998年から2000年にはメキシコに海外派遣員として赴任。2019年から現職。専門図書館協議会で研修委員長として、日本全国の専門図書館で働くライブラリアンを対象とした研修プログラムの企画・立案・運営を推進。2020年度からはZOOMによるオンラインセミナーを展開中。

■日本の地域研究は海外と比べて特異的

――設立の経緯と主な変遷をお聞かせください。

アジア経済研究所(以下、アジ研)は1958年に財団法人として創立し、60年に通商産業省(当時)傘下の特殊法人となり、2020年に60周年を迎えました。その間1998年には日本貿易振興会(現日本貿易振興機構)と統合し、2003年には独立行政法人となりました。

そもそも日本がアジア地域に強い関心を持つようになったのは日清戦争以後です。帝国主義や植民政策と関連して、南満州鉄道会社の中に「満鉄調査部」という巨大な調査研究機関がつくられました。ただ、アジ研は人や資料といった点で満鉄調査部を引き継いだ部分もありますが、戦後誕生したさまざまな団体を経由する形で創設されたものになります。

そのため、戦前から戦後に継承された部分もあれば、断絶した部分もかなりあります。アジ研の初代所長だった東畑精一先生は、政治的なイデオロギーでなく、経済学的な基礎知識と科学的な研究手法に基づく研究をすると考えていました。この考え方がアジ研に大きく反映されています。

また、58年の財団法人アジア経済研究所の設立は、学会・財界・政界という三方からの要望があって成立しました。学会からの要望は、基礎資料の収集と、若手研究者の育成です。特に基礎資料を収集する施設、つまり図書館には当初から力を入れていました。財界の要望は、日本企業が事業を拡大していった際に必要な各国の経済や文化の調査。そして政界には、アジア諸国への経済協力政策の一環として調査研究機関が必要だという考えがありました。

学会・財界・政界それぞれの要望を踏まえ、政府のもとつくられた機関ですが、どちらかというと政策に直結した研究よりも、学術研究を重視する機関として歩んできました。

(画像提供:アジア経済研究所)

――当初から、アジア以外の地域も対象だったのでしょうか。

はい、設立当初からアジア以外の地域も意識していたと思います。中東研究は75年、ラテンアメリカ研究が84年、アフリカ研究が85年に始まったと記録されていますが、研究者の採用はもっと前から行われていました。

――日本以外の国の地域研究機関はどのようなものがあるのでしょうか。

例えばアメリカでは、戦後の冷戦時代に敵国について知る、あるいは地政学的な利害を考えて行う研究が中心になっていました。他方、イギリスやフランスでは植民地としていた国の研究をしてきています。今はそれが引き継がれて国際協力や国際開発の実践に資する研究をしている機関が各地にあります。

有名なところですと、オランダの国際社会研究所(ISS)、イギリスの開発学研究所(IDS)、ロンドン大学のアジア・アフリカ研究学院(SOAS)、シンガポールのユソフ・イシャク研究所(旧・東南アジア研究所、ISEAS)などが挙げられます。

――その中で、日本の地域研究の特徴は何でしょうか。

日本の場合には、戦前の植民地研究や帝国主義的な研究をいったん否定しています。そのため60年代以降の研究は、国際政治の情勢に左右されない形で諸地域の政治・経済・社会等の特性を総合的に理解するというスタンスで発展してきました。

今でも、「基礎的かつ総合的な調査研究」という目的で途上国研究を中心としている機関の中で、110人のプロパー研究者を擁している点では、アジ研が世界最大規模に近いと思います。

――国際的な研究ネットワークはどのように広がっていますか。

1つは、研究者派遣です。アジ研に入職すると、研究者だけでなくライブラリアン、研究マネジメント職員、編集担当職員にも海外派遣があり、自分のテーマを持って研究を深めていく期間が与えられます。この期間に途上国・先進国の研究機関や研究者とネットワークをつくることができます。また、他国の研究者を客員研究員として受け入れています。

アジ研が協力のためのMOUを結んでいる内外の研究機関・大学もありますが、なかでも大きな特徴として挙げられるのは“東アジア版OECD”として2008年に設立された「東アジア・アセアン経済研究センター」(Economic Research Institute for ASEAN and East Asia:通称ERIA)との連携です。アジ研はERIAの創設以来ERIA事業に深く関わってきました。さらにERIAを支える16カ国を代表する研究機関のネットワークは、RIN(Research Institutes Network)と呼ばれ、ERIAとともに地域の経済統合や経済発展等に資する研究を行っています。アジ研はそのRINの事務局を務めています。 そのほか、研究者は自分の担当国・地域の研究者との共同研究も実施している一方、欧米先進国との共同研究はまだまだ少ないので、その点が今後の課題です。

■新型コロナや社会課題の研究もコラムや書籍で多数発信

――最近行われた研究についていくつかお聞かせください。

例えば、2010年末から始まったアラブ・中東地域の民主化要求運動に対しては、2011年以降数年にわたり政策提言研究や機動研究を立ち上げ、その成果をポリシー・ブリーフや情勢分析レポートとして発信してきました。

権威主義体制下にある国や体制の変革や急速な社会構造の変動に直面する国に関して、政治社会が安定化、不安定化する要因や、独裁者が長期にかつ安定して体制を維持するメカニズムを探る研究を実施したり、地域を超えた横断的な問題を取り上げて比較分析を行ったりしています。

経済面では、グローバル・バリュー・チェーンという経済付加価値の連鎖の研究が注目されています。最新のデータを活用した分析もさまざま行われていて、アジ研がつくった経済地理シミュレーションモデル(IDE-GSM)は、インフラ開発や政策変更の影響を細かい経済単位で計測することが可能で、世界銀行やアジア開発銀行でも利用されています。最近の成果としては、2022年1月に発効した東アジア地域の包括的経済連携(RCEP)協定について、日本の都道府県別・業種別の経済効果のシミュレーション分析結果がアジ研ウェブサイトで閲覧できます。

アジ研 RCEPリポート(画像提供:アジア経済研究所)

その他、様々な社会的課題に対して「障害と開発」「ビジネスと人権」「ジェンダー研究」といったテーマで研究も立ち上がっています。

――新型コロナウイルスは世界全体の問題となりましたが、関連した研究はありますでしょうか。

たくさんあります。アジ研のWebサイトに、「アジ研 新型コロナ・リポート」という特集ページが開設されていて、そこに研究成果がまとめられています。2021年10月には日本経済新聞出版から「コロナ禍の途上国と世界の変容 軋む国際秩序、分断、格差、貧困を考える」(佐藤仁志・編著)が出版されました。

大枠としては、「コロナ危機が襲い、国際協調が弱体化する中での新興国経済の状況を分析し、日本がとるべき道を探る」というもの。例えばコロナによるパンデミックがどんな形で貿易や政策に影響を与えたのか、あるいは金融危機をもたらしたのかといった「テーマ視点からの分析」と、中国、韓国、インド、ブラジル、南アフリカなど「個別地域に焦点を当てた分析」の両方から立体的なアプローチを試みています。通常のアジ研の研究では、「テーマ視点からの分析」と「個別地域に焦点を当てた分析」は別々で行われることが多いのですが、本書は両方から研究者が入って分析している点が大きな特徴です。

■60年で集めた70万冊の蔵書をいつでも誰でも閲覧可能

――専門図書館についてもお伺いできますでしょうか。

研究所の図書館というと「資料室かな?」と思われる方も多いのですが、約70万冊という中規模の大学図書館と変わらない規模の蔵書があり、その膨大な資料をどなたでも閲覧できる(現在はメールによる事前予約制)大きな図書館になっています。海浜幕張にあります。4階建ての吹きぬけで座席数も100席となっています。

(画像提供:アジア経済研究所)

設立当初から、アジ研の研究活動を資料の側面から支援することを第一の目的として、あらゆる開発途上国の資料を集めてきました。欧米諸国の学術書だけではなく、「現地語を用い、現地資料にあたり、現地に滞在して研究する」という「三現主義」の考え方に基づいて60年間にわたり集めてきました。

――アジ研の刊行物や出版物は、Web上でも閲覧できるということですが。

はい、学術研究リポジトリ(ARRIDE)において、出版物を一元管理して提供しています。過去の出版物から2021年最新のものまで、研究成果の多くをご覧いただけます。また、2020年からは、アジ研で刊行する資料は基本的には電子書籍(eBook)で配信しており、紙で読みたい方にはプリントオンデマンド(PDF)で販売しています。電子書籍は2021年には3点、2022年にはすでに7点が刊行予定となっています。

また、IDEスクエアというウェブマガジンでも、時事問題やスポーツ、芸能、食文化などを通じて見える社会事情などを取り上げ,読み応えのある論説記事からエッセイまで幅広く掲載しています。

■SDGsの実現に向けた国際シンポジウムを開催

――現状、取り組みの中で課題に感じられている点がありましたらお聞かせください。

100人を超えるプロパー研究者がいて、多くの研究をして成果を挙げている機関なので、その成果をもっと効果的にさまざまなステークホルダーに届けていきたいと考えています。学術的な論文も、それ自体が成果ではありますが、さらに一歩進んで、それをどんな形で社会に還元していくのかをもっと考える必要があります。

現在、米中の問題、社会・環境問題など、あらゆることが不確実になっています。その中でアジ研がそれぞれの地域について深く研究することで果たせる役割はとても大きいと思います。

政策への寄与ということでいえば、ジェトロでは世界各地に事務所を持ち、主に企業向けにタイムリーな情報提供をしています。 他方、アジ研の場合は、直接的、短期的な寄与というより、もう少し深く歴史的、構造的な視点から、今後中長期的に途上国の変化、ひいては日本との関係を考えるのに役立つ研究を行っていますから、それをきちんと必要な人に届けていくことが課題です。政府、企業のみならず、NGOなど市民団体、学校などにもアプローチして、若い方々を含む多くの立場の方々に届けたいと思っています。

――今後の展望についてお聞かせいただけますでしょうか。

先ほども申し上げたように、あらゆることが不確実な世の中になり、米中対立、ポストコロナ、環境問題など、世界のどの国も他人ごとではない問題はますます増えていくと推測されます。今後、新興国・途上国のプレゼンスはより高まっていくでしょうし、日本経済にとっても、これらの国々の市場や人的資源を含む経済力は非常に重要です。また社会課題の解決等においては、新興国・途上国から学ぶべき点が多々あります。そうした状況において、アジ研が新興国・途上国について深い基礎を持った研究を行い、同時に資料を収集していくことで果たせる役割は大きいと信じています。

アジ研は、100人以上の研究員、専門性を持ったライブラリアン・研究マネジメント職・編集職、研究をさまざまな形で支える総合職がいて、素晴らしい図書館、出版機能、研修機能をフルセットで持っています。それらを十分に活用し、国内外の研究機関や大学等との連携によって、より社会に貢献していきたいと考えています。

――ぜひPRの観点でお力になれればと思います。今後予定されているイベント等はありますか。

2022年1月27日には、世界銀行・朝日新聞社と共催で国際シンポジウム「サステナビリティと企業の社会的責任:SDGsを現実にするポスト(ウィズ)コロナの10年に向けて」がオンライン形式で開催予定です。

サステナビリティと企業の社会的責任:SDGsを現実にするポスト(ウィズ)コロナの10年に向けて(画像提供:アジア経済研究所)

今年の国際シンポジウムのテーマは、アジ研が2013年から日本でも先駆的に取り組んできた「ビジネスと人権」です。SDGsの進捗とコロナ禍による打撃を評価しつつ、SDGsを現実のものとするために、ビジネスと人権の企業の取り組みと課題、サステナビリティを導く政策のあり方について、ポスト(ウィズ)コロナを見据えて議論します。参加無料ですのでご興味を持たれた方はぜひお申し込みください。