1989年芦屋大学教育学部卒業。
大手マンション分譲会社の営業を経て、1999年に赤鹿地所の社長に就任。
兵庫県南西部において独自の手法で住宅地・商業地の開発を展開。
不動産賃貸会社、マンション管理会社などの関連グループ3社を経営。
(趣味は旧いイタリア車収集。休日は専らサーキット走行やドライブ。)
これまでの事業変遷について
—— 事業変遷についてお聞かせください。
株式会社赤鹿地所 代表取締役社長・赤鹿 保生氏(以下、社名・氏名略) 弊社は昭和33年に父が建築会社を創業したのが始まりです。当時は高度経済成長期で、国の経済成長とともに弊社も成長していきました。建築会社として、住宅、設計、建売、工事など、さまざまな部門を展開し、事業を拡大しました。その後、これらの部門を少しずつ分社化していきました。
1990年のバブル期に、新しく立ち上げたのが現在の会社です。当初は建築会社の一部門としてスタートし、私はその2年後の1992年に入社しました。それまでは別の大手分譲マンション会社で働いていましたが、父から「帰ってこい」と言われ、設立したばかりで社員が3人ほどしかいない会社に加わりました。
—— 当時の会社の様子はいかがでしたか?
赤鹿 正直、戦略も何もない状態でした。グループ会社は4~5社ありましたが、どこも指示をこなすだけの状態でした。私は前職で分譲マンションの営業をしていた経験があり、不動産仲介業務を軌道に乗せる必要があると考え、少しずつ努力を重ねていきました。
1999年に私が代表に就任し、当時、父が手掛けていた分譲マンションの販売業務を当社で受諾し、社員も徐々に増えていきました。2000年ごろ、ゼロ金利政策の影響でマンションバブルがわずかに再燃し、好調な時期がありましたが、その後のリバウンドで2003年に販売不振に陥り、25人いた社員をリストラせざるを得ませんでした。あの経験は今でも忘れません。
経営者として最も苦労した時期でしたが、その後5人のチームで仲介業務を再スタートし、2004年からは宅地販売事業を開始しました。当時、既に姫路市では建売住宅の分譲も活発に行われていましたが、競争が激しく、勝ち目がないと判断して建築条件のない分譲地(土地のみ)に特化し、兵庫県南西部を中心に展開しました。事業は徐々に軌道に乗り、業績も安定しました。2020年には姫路市で宅地分譲の供給量がトップとなり、現在は賃貸事業にも力を入れ、約2,000戸の物件管理を目指しています。再来年にはさらに2社を新設する計画で、事業エリアは姫路を中心に、加古川や明石、岡山の県境までカバーしています。
自社事業の強みについて
—— 事業の強みについてお聞かせください。
赤鹿 最大の強みは「土地の販売」にあります。特に、住宅用の土地に特化している点がポイントです。また、地域のビルダーや地元の工務店、大手ハウスメーカーなど約50社と提携しています。
一般的に、ハウスメーカーを訪れるお客様の半数ほどが「土地なし客」と呼ばれる、土地を持たないお客様です。彼らはモデルハウスを見て建築会社を決めた後、土地を探す必要があります。その際、ハウスメーカーから紹介を受け、当社が専門的に土地を探し、紹介しています。土地探しに関して、当社ほど情報量を持っている会社はこの地域には少ないと思います。
——土地の専門性という点で、御社がかなりの優位性を持っているということですね。
赤鹿 この20年ほどで、土地に関する情報量や販売力の面で強みを確立してきました。弊社の開発部門が毎年調査を行っていますが、姫路市内の宅地分譲地の開発戸数で当社はトップ企業となっています。数年前までは3位から5位を行き来していましたが、2020年以降は2022年を除き常にトップを維持しています。
さらに、業績も12年連続増収増益です。また、近畿レインズが発表している土地取り扱いのシェアでも姫路市内でトップを誇り、民間の不動産ポータルサイトでも土地売却数で常に1位を維持しています。
ぶつかった壁やその乗り越え方
—— これまでにぶつかった壁と、それをどのように乗り越えたのか、お聞かせください。
赤鹿 特にリストラ後は、私自身も仕事に手がつかない時期がありました。そんな中で、2001年ごろの出来事が、会社にとって大きな転機となりました。
その頃、農地を仲介していた案件がありましたが、なかなか売れず、何度か値段を下げても反応がなく、1年以上が経過していました。そんな時、売主から「安くてもいいから買い取ってほしい」と依頼を受けたのです。
ちょうどその頃、あるご婦人が息子さんの自宅用地を探していると、私たちの事務所に来られました。彼女は「代々大工をしている家系なので、父親が自宅を建てたいが、どこに行っても建築条件付きの土地しかない」と相談されました。この話を聞き、「確かに、建築条件なしの土地は少ないな」と感じました。
そこで、農地の買取を決断し、ご婦人のニーズに応える形で、建築条件なしの土地として整備して販売することにしました。結果、この決断は正解で、1年以上売れなかった農地は12区画の分譲地となり、わずか2週間で完売しました。
この成功が、不動産仲介業から不動産開発業に踏み出す大きなきっかけとなりました。これまでの仲介業務の経験から、地域の需要や適正価格を把握していたため、自信を持って取り組むことができたのです。
今後の経営・事業の展望
—— 御社が目指している方向性やビジョンについて教えてください。
赤鹿 私たちが目指しているのは、不動産分野において価値を創造し続ける企業になることです。このビジョンは20年近く続けてきたもので、新しく入社する社員にも必ず伝えています。
不動産業界には多くのジャンルがありますが、私たちはその中でも「価値を生み出すこと」に特化しています。例えば、長年放置されてきた農地や、空き家が点在する集落、車が入れない狭い道に面した土地など、一見利用が難しい不動産でも、適切な開発を通じて新しい価値を提供しています。
最近特に増えているご相談の一つが、平成初期に大量に建設された賃貸アパートの老朽化問題です。建物自体はまだ耐用年数が残っていますが、設備が古くなり空室が増えている状況です。これも一種の空き家問題と捉えており、賃貸市場でも対処が必要だと考えています。また、アパートのオーナーの高齢化に伴い、相続による負担が大きくなっているケースも増えています。
そこで、私たちは少額の投資で新しい入居者を呼び込み、満室経営を実現するための管理サービスを提供しています。この分野でも、価値創造を通じて社会に貢献できると考えています。
ただし、現状では解決が難しいケースもあります。特に、市街化調整区域の不動産の売却や処分は非常に難しい問題です。こうした不動産の社会課題に対しても、今後は創造的な解決策を提供していきたいと考えています。
ZUU onlineユーザーへ一言
—— 読者の皆様に向けて、一言メッセージをお願いできますか?
赤鹿 現実的には、僻地に行くと0円でも1円でも売れない不動産が多く存在します。しかし、私はどんな不動産にも価値があると思っています。重要なのは、その不動産に新たな用途を見出し、どのように開発できるかだと考えています。
もちろん、すべての不動産で価値創造ができるわけではありません。都市計画法の制約もあり、開発が難しいエリアも存在します。しかし、私たちは不動産分野での価値創造にこだわり続け、その力をさらに磨いていきたいと考えています。そして、限られた兵庫県南西部という地域の中で、不動産価値創造においてナンバーワン企業であり続けたいと思っています。
- 氏名
- 赤鹿 保生
- 社名
- 株式会社赤鹿地所
- 役職
- 代表取締役社長