糸井 重夫(いとい しげお) 教授
1960年埼玉県生まれ。中央大学大学院商学研究科博士課程修了。同大学院法学研究科博士課程単位取得退学。現在、松本大学松商短期大学部 商学科、教授。貨幣数量説の理論的発展とその政策、日米欧の高等教育改革などについて研究。著書に「貨幣数量説の研究」など。
ー まず、先生のご経歴について簡単にお伺いしたいと思います。
糸井教授
中央大学の商学部出身で、同大学院で修士と博士課程を修了し、経済学の博士号を取得しました。その間、旧西ドイツのヴュルツブルグ大学に1年半留学し、ユニバーサルバンキングについて学んだ経験があります。ユニバーサルバンキングとは、銀行が証券業務も手がけられるシステムのことです。当時、日本でもこのシステムへの移行が議論されていました。
その後、さらに知識を深めるために中央大学大学院の国際企業関係法学科に進みました。特に日本があまり強くない金融法の分野を学びたかったのですが、仕事の多忙さにより満期退学しました。以上が私の学歴と経歴の概要です。
ー ありがとうございます。続いての質問に移ります。ご存じのように、学習指導要領の改定により、2022年度から金融教育の授業が必修化されました。この政策について率直なご感想をお聞かせください。
糸井教授
進展していることに喜ばしい気持ちがあるものの、少々遅いと感じています。日本の教育は大学入試が重視されているため、受験関係の科目勉強が中心です。そのため、受験に直接関連しない科目はあまり重視されない傾向があります。金融教育も家庭科の授業で取り扱うため、どの程度重視されるか不安な面は残ります。
たとえばドイツでは、高校卒業後に「アビチュアー(Abitur)」という試験があり、その段階ですでに経済学が学習対象になっています。教科書や練習問題にはグラフや図などが豊富に含まれているんです。
アビチュアーのスコアは大学の進学にも影響しますが、これは大学入試ではなく高校卒業のための試験です。これに対して、日本のシステムは大学入試が主体です。
金融教育の必修化に加えて、「情報」という科目も導入されましたよね。やはり金融を学ぶためには、データ解析力や数学の理解力が求められます。そうした観点からも、「情報」科目の導入は良い取り組みだと思っています。
結局のところ、単に金融教育だけを受けても、データの読み解きができなければ為替や投資の問題などは解けません。中学や高校で深く踏み込む必要はありませんが、データ解析力や数学力を加味した金融教育が高校の段階で実施できれば、大学での金融教育もスムーズに進められると思います。
ー 成人年齢の引き下げにともない、若者が実生活で金融に関わる機会も増えてきていますよね。先ほどお話にあった「データを読み解く力」について、詳しく伺えるでしょうか?
糸井教授
データは豊富に存在しますが、それを必要な情報として選別し、自分に有用なものとして認識する能力が私たちには必要です。ビッグデータがあったとしても、それを有効に使える人とそうでない人がいますよね。この選別能力は、グローバル化と情報化社会において必須のスキルといえるでしょう。本学でも、ITとビジネスを関連づけた学修を進めるため、今年度からいくつかの科目を開講し、情報化に対応した教育の充実を図りました。
また、自分の知識や能力、そして目標に対して、データが本当に必要かどうかを判断し、読み解く力も必要です。これは、できるだけ早い段階から育んだほうがよいでしょう。そのため、小学校からこのような能力を段階的に養っていくことが必要だと考えます。
ー 現在の日本の金融教育について、先生が課題に感じている点はございますか?
糸井教授
学校の授業での学びも重要ですが、現実世界を理解するためには現場経験も欠かせません。高等教育では大学と社会を往還(行ったり来たり)するような教育手法が求められると思います。
そのため、地域社会と学校の連携を強化し、キャリアや仕事の選び方、生きがいの発見などを現場体験によって学ぶことが重要です。企業から講師を招くことや、地域の人々と直接交流することは、学生に大きな影響を与えるでしょう。
要するに、学校教育で基礎知識をしっかり学ぶのと同時に、実践的な経験も得ることが重要だと私は考えます。これにより、学生は現実社会での対応能力を養えるのです。
金融教育においても、現場との連携が重要です。たとえば私の短大では、証券会社や銀行の人々を招き、現場の話を聞く機会を設けたり、アウトキャンパス等で地域企業を訪問したりしています。特に投資信託商品については、「投資と運用」の授業で作成したものを金融機関の方へ見せてみたり、反対に金融機関の方から取り扱っている商品の説明を受けたりすることもあります。
このように、学校と現場を繋げる取り組みは重要です。現場の経験を通じて、学生が経営学や簿記会計、マーケティングの意義を理解し、それが大学生活における学習を深める動機づけになることを期待しています。
ただし、地元企業との交流を日常的に実施することは容易ではありません。これをどう実現するのかが今後の課題となっています。
ー 「投資と運用」という授業では、非常に珍しい取り組みをされているのですね。詳しくお伺いしてもよろしいでしょうか?
糸井教授
本学は情報処理と簿記がメインの科目で、全ての学生がこれらの分野に関連する資格の試験を受け、取得します。そこで、これらの科目を融合させる目的で、情報処理と簿記の先生が共同で、学生と一緒にリスク分散型の投資信託商品を作るプロジェクトを立ち上げました。証券会社様と協力して、学生が作成した投資信託商品の評価や運用成績を確認したりもします。
学生には仮想資金として1,000万円が配られ、自分が注目する会社の株式を売買します。簿記の先生は、財務諸表からその会社の企業価値を算出し、時価総額と比較して売買の判断を下します。売買は情報処理の先生が作成したソフトウェアを通じて実行され、ほぼリアルタイムで株価の変動を追うことが可能です。
株価の変動には経済状態が大きく関与します。たとえば、日銀の量的・質的金融緩和が始まった時、株価は一挙に上昇しました。金融緩和による円安の進行で輸出企業の業績が回復すると期待されたからです。そうした背景がわかると、輸出企業の株を先取りして購入するといった考えが思い浮かぶようになります。
こうした理解を深めるためには経済学の知識が必要で、その部分を私が教えました。また、テクニカル分析、つまり株価の動きを分析するためには、情報処理の先生の存在が不可欠です。その先生は株価の上下動を解析し、テクニカル分析について説明していました。
この授業は今は半期科目ですが、以前は一年間にわたり実施され、学生たちは投資の実践を通じて深い学びを得ました。授業の最終段階では、学生たちが企業の方々の前でプレゼンし、評価を受けるなどの取り組みも実施しました。授業は学生たちに好評だった様子で、一喜一憂しながら積極的に参加してくれました。
ー それはたしかに魅力的な授業ですね。学生からも人気があるのではないでしょうか?
糸井教授
そうですね、かなり人気のある授業です。ただし、一部の学生には避けられる傾向があります。成績優秀で真面目な学生よりも、一発逆転を狙いたいタイプの学生がこの授業を好んでいる様子です。
ー 仮想資金とはいえ、学生がお金を扱うという点を踏まえると、実現が難しい授業のように思えます。その点について困難や葛藤などはありましたか?
糸井教授
問題として挙げられるのは、学生たちが投資をギャンブルのように捉えてしまうことです。財務諸表の分析などを通じて投資する分には問題ありませんが、根拠のない信念に基づいて投資をしてしまう学生もいます。これは特にギャンブル志向が強い学生に多く見受けられます。
私たちは、このような行動を推奨していません。自身が納得した上で投資をすべきだと考えています。社会人になっても同様で、他人の意見に流されて投資することは、ときに金融犯罪の温床にもなりえます。ですので、早い段階からの金融教育がとても重要になるのだと思います。
私の信条は、自分が理解していないものには手を出さないこと、そして理解したものに対して投資をすることです。それには簿記会計や経済学の知識が必要で、理解した上で納得して投資することが本当に重要だと考えています。しかし、現状ではギャンブル思考の学生も多く、これが教育上の課題の1つです。
ー 続いての質問です。全世代を対象とした金融教育の提供において、大学が果たす役割は具体的にどのようなものでしょうか?
糸井教授
大学が最初に考えるべきは学生に対する教育です。特に我々の大学では、大多数の学生が地元出身です。彼らに対しては、マクロ的な経済全体の視点とミクロ的な個人レベルの視点から金融教育を提供すべきだと考えています。金融と経済の全体像を理解するとともに、投資や資産運用に必要な各種商品の知識も身につけるべきでしょう。
多くの学生は、卒業後も地域に根づいて生活していきます。本学の教育が金融知識を備えた地域住民の増加に繋がるのなら、大変嬉しく思います。ただし、金融の理論は常に変わっていきます。そのため、卒業から数十年経つと、学んだ内容が直接役には立たないかもしれません。
そこで、大学側は卒業生や地域住民に対して市民大学講座のような形で情報提供することが求められます。大学は知識の提供拠点としての役割があります。学生だけでなく、全ての世代に対して情報発信することが大学の存在意義といえるでしょう。
ー 大学における金融教育の現状について、課題に感じている点はありますか?
糸井教授
現在、私が担当しているのは個人レベルの金融教育よりも、全体的な金融経済の授業です。その中で感じている課題は、さまざまなデータを読み解く力と数学的に理解する力が多くの学生で不足していることです。
情報を読み解く力は今や必要不可欠なスキルですが、さらなる発展が求められます。また、金融教育においては数学的な表現を理解する力が不可欠です。特に微分の理解などが必要になるのですが、内容が難しくなりやすいため、私はできるだけ数学を使用しない方法での金融教育を試みています。
経済学は文系と誤解されがちですが、実際には理系に属します。新たに日銀総裁になった植田総裁が理学部出身であることからも、そのことが理解できると思います。しかし、多くの人々が経済学を文系と思い込んでいるため、結果として数学に苦手意識を持つ人が多く存在します。
これは大きな問題で、どう対応すべきかが今後の課題といえるでしょう。特に、入学時点で数学に苦手意識を持っている学生に、どのような教育を提供するのか考える必要があります。要するに現在の主な課題は、数学的な理解力とデータ解釈力の向上にあるといえるでしょう。
ー たしかに、高校や中学校の段階から基礎を養い、それを大学教育に繋げることが重要だと思います。
糸井教授
そのとおりです。また、私が指摘した数学についてですが、それは受験数学を指しているわけではありません。たとえば縦軸にy、横軸にxをとってy = ax + bという一次方程式がありますよね。それが、縦軸を消費C、横軸を国民所得Yにすると、今度はC = aY+bになります。
一部の学生は、単純な一次方程式なら理解できても、違う記号に変えてしまうと理解できなくなってしまうことがあります。だからこそ、私としては数学を純粋に教えるのではなく、データ解析や他の実用的な場面で活用できるスキルとして数学を身につけてもらいたいと思っています。
ー 最後に、これから金融教育を学んでいく学生たちへのメッセージをお願いします。
糸井教授
金融教育とは、お金を稼ぐ方法、またはお金を働かせる手段を学ぶことです。お金は資本主義経済において極めて重要な要素であり、お金を稼ぐという行為は他人との関わりから報酬を得ることを意味します。これは感謝、生き方、価値観、人生観、そして人間の尊厳にまで結びつく行為です。
お金の問題は、私たちがどのように生きるべきなのか、どのような生き方を選択するのかという問題と深く結びついています。お金がなければ生活は困難になります。だからこそ、国家財政の状況、為替の動き、戦争が物価に与える影響など、視野を広げ、多角的な視点から現代社会を理解することが重要です。
経済・社会現象が自分の生活にどのような影響を及ぼすかを理解するため、これらの事柄について深く考えることが求められます。そのためには、金融教育が欠かせません。学生たちには色々なことにアンテナを張って金融の知識を深めていってほしいと思っています。